クラブ創部経緯:
地元国立市矢川地区のメンバーが集まり昭和38年ヤガワビクトリー(グリーンクラブ前身)を創部。
メンバーは全員国立第一中学校と第二中学校のOB。国立第三中学校がまだ無かった時代です。
当初はヤガワっ子だけで集まり野球チームを集結、約5年間クラブ活動を続ける。
転機は昭和41年、更に本格的な野球を求めるメンバーが増え始めた時、当時キャプテンの三田信夫氏が国立第二中学校野球部長の江間隆先生に今後のクラブ活動について指南を仰いだところ、本気で野球を続けたいメンバーで新しいチームを作ることを提案され、野球熱の高いメンバーが集まり新しいチームの再結成を目指す。
この動きを全面的に支えたのが、地元矢川で季節料理屋を営む加藤尚氏。同料理屋2階の御座敷がヤガワっ子達の会合場所として提供され、新チーム創部の動きが加速していく。
グリーンクラブ結成は昭和41年。チーム名の由来はチーム紹介のページでも説明しているように、国立市のシンボルカラーと新人ボクサーの俗称を引用したもの。実はチーム名由来の説はもう一つある。会合の最中、息抜きで麻雀をしていたメンバーの1人が緑を鳴いた時に「チーム名はグリーンがいいな」といってチーム名が決まったというもの。いずれの由来も、真面目さとユーモアさを併せ持った初代グリーンクラブメンバー達の姿をよく表しています。
グリーンクラブ創部 |
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グリーンクラブ創部間もない頃の集合写真。
この当時としては高級なユニフォームを気合を入れて揃える。
なんと!ユニフォームは完全オーダーメードで、OIOI(マルイ)に特注! 支払いは月賦。
今のグリーンでは考えられないくらいのこだわり。
写真からはよく色調が分かりませんが、薄いグレーのユニフォームです。
写真からはメンバーが特定できず申し訳ありません。創部当初のメンバーを分かる限りリストしました(敬称略順不同)佐伯藤造、三田信夫、中村波次、原田譲二、佐伯丈生、帆苅一長、中村幸造、遠藤盛夫、若松富男、加藤尚、江間隆顧問、以上。 |
グリーンクラブ初優勝! |
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昭和42年に国立市野球連盟に加入、当初は2部からのスタート。 翌年秋季大会に優勝し1部に昇格する。
本格的な野球を求めて結成されたチーム初の栄光。
この優勝を機にメンバーの結束はさらに固まり、チームの躍進が始まるのである。
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グランドの外でも大暴れ! |
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先代達も今のメンバーも祭りに限らず何かと集まるのが大好きです。
これはグリーンクラブのDNAでしょう!ほんと社交性が強いチームです。
左上の写真は地元の祭りでユニフォームのまま先代たちが神輿を担いでいるところ。
古い写真ですが、ここまではよくある話ですよね。
凄いのは左下の写真。
着ているものに注目! 野球のユニフォームがお揃いの半纏に変わっています。
どうせやるなら! ということで思い切って自分達専用の半纏をオーダー。
野球チームなのにユニフォーム以外でも祭りのユニフォーム?を揃えるあたりは並みのチームではないということか?
そして左下写真のお店、グリーンクラブ名ショート加藤氏が経営する季節料理屋1階カウンター周りを写しています。平日でもクラブメンバーが集まる地元では有名なお店です。
後ろの壁には賞状が掛けられ、カウンター内にはトロフィーやカップが置かれ、一時お店の中はグリーンクラブ一色でした。
グリーンクラブ発展の歴史を感じされる場所でもあり、今も若手グリーンクラブメンバーは加藤氏との会話を楽しみに通っています。
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グリーンクラブの応援者 |
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左の写真はグリーンクラブ後援会が主催した優勝祝賀会の様子。
多くの方々の応援がグリーンクラブを支えてくれています。
野球も地元コミュニティーとの繋がりも大切にしてきた先代達。
自然と多くの人が集まり、盛り上がっている雰囲気が伝わってきませんか?
グリーンクラブのために何とかしよう!という人たちが沢山集まってきています。
「なぜグリーンクラブがここまで強くなったのか?」
そこにはグリーンクラブを応援してくれた多くの人たちの存在が関係しています。
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都民大会で出場行進するグリーンクラブ |
試合開始整列時の写真 |
国立市の大会で優勝し、国立を代表して出場した大会。
成熟期のグリーンクラブはメンバー数も増え
国立を代表するチームになっていました。 |
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